大賀薬局

すべてのひとに心強い「マイ・ファーマシー」をめざして。

大賀薬局の歩み
HISTORY

一世紀以上に亘る大賀薬局の歴史を、当時の写真とともに振り返る。
困難を乗り越え、また時には業態を変化させ、そして多くの決断を行い、実行してきた唯一無二の歴史が、
大賀薬局のスタッフ全員の支えとなっています。

大賀薬局の原点
1902年(明治35年) 大賀可壮、筑紫野市二日市にて創業。

大賀可壮(現社長の祖父)が、若干14歳の若さで従業員3人とともに二日市駅前(蒸気機関車の停車駅)に「大賀商店」を開店、第一歩を踏み出した。店は約100坪、薬、化粧品をはじめ、酒、米、タバコ、食料品、衣料品と何でも揃う、現在のスーパーマーケットに近い業態の店であった。その当時は、縄の帯を締め、藁の草履で足に豆をつくり、車力で県内は勿論、佐賀、熊本迄走り回った。その頃の努力が後日大きく飛躍する土台をつくったのである。

1909年(明治42年) 薬種商免許を取得。

明治22年に公布された「薬律(現在の薬事法)」のもと、必要な知識・経験が認められ、「薬種商」として認定され、免許を取得。このころから医薬品に特化した商店として歩んでいく。

この頃の出来事 ・福博電気軌道が路面電車の運行を開始(のちの西鉄福岡市内線〔1910年〕)
薬問屋として新天地へ
1927年(昭和2年) 福岡市天神町(現 福岡銀行本店)にて薬品卸問屋開業。

当時の福岡市の商業の中心は川端通りであったが、可壮は1924年に開通した九州鉄道(現 西日本鉄道)の福岡駅を見て、「商業の中心は天神町になる」と確信を持った。そして3年後、天神町に進出し、品目を薬品と食料品に絞り、当時一流メーカーであった製薬会社の九州総代理店となった。店員も20人ほどに増え、車力は自動車になり、草履が靴になった。そして九州一丸にわたり卸問屋として活躍を始めた。その数年後、天神町に「岩田屋」がオープンし、可壮の信念が正しかったと証明されたのである。この頃が、可壮の時代の全盛期であった。

だが、だれが予想しただろうか。昭和10年に、製薬会社が倒産。1メーカーに全力を傾けていた為、その痛手も大きく、問屋業をやむなく閉鎖するという、厳しい局面を迎えることになる。しかし、可壮は未来をあきらめることなく、すぐに福岡市東区の大学前(現 九州大学病院前)に店舗を移し小売薬局として開業する。これが薬局としての始まりである。

この頃の出来事 ・九州鉄道(現 西鉄天神大牟田線)開業〔1924年〕
「戦争」という時代の中で
1941年(昭和16年) 出兵した栄一、奇跡の生還。

昭和16年、第二次世界大戦に参戦。栄一は軍人として、出兵することになる。その間、可壮は大学前の店を守りながら一人息子である栄一の無事を祈った。昭和20年8月、終戦を迎えたが、陸軍少佐大隊長であった栄一は戦犯として遠い佛印の土地に残されていた。まったく便りもなかったため、栄一の生還を皆もうあきらめかけていたが、翌21年5月頃、何の前触れもなく復員してきたのである。それは奇跡としかいいようがなかった。十人の将校戦犯のうち、八人絞首刑となり、ただ二人だけの生還だった。詳しい理由はわかる由もないが、考えうることとして、戦中、捕虜の中二十数人の将校がいて、栄一はその将校たちに時に酒、タバコを与え、戦争の情報は勿論、アメリカの最新の商売についても情報交換したという。

やがて敗戦を迎え、逆に捕虜となり裁判の席上に呼び出された際、裁判官の中にその将校がいた。きっとその将校たちが好意的な発言をしてくれたのだろう、それ以外に助かる理由は考えられない。「情けは人の為ならず」と、栄一はしみじみ話していたという。

1946年(昭和21年) 可壮と栄一、一念発起。

可壮と栄一の二本柱がようやく揃った。戦法を商法に切り替え、基礎固めを行っていく。問屋への注文では配達が遅いので、こちらから取りにいき、欠品のないよう万全の注意を払い、次第に信用を高めていった。刀をそろばんに持ち替え商売に打ち込むその姿は気概が感じられ、売り上げも目覚ましく伸び、この時期の売り上げは2年で5倍という伸びを見せたという。こうして、大学前の店が栄えていく中でも可壮と栄一は「商売の中心は天神町になる」という信念を持ち続けていた。

この頃の出来事 ・陸軍席田(むしろだ)飛行場(現 福岡空港)開場〔1945年〕
・福岡大空襲〔1945年6月〕
・新天町開店〔1946年〕
念願の天神へ、再進出
1949年(昭和24年) 何でも揃う店を西鉄街に開設。

栄一と昌子は戦後間もなく、宿望の土地、天神町へこの年の11月に再進出。西鉄街(現 天神コア)の入り口に「西鉄街店」をオープンし、大変繁盛した。1階が薬局、2階は事務所、3階は住居だった。開店は7時半、閉店は深夜12時。新しい店舗のモットーは「何でも揃う店、品切れのない店、新しい品を売る店」であった。市内で唯一、輸入薬品を取り扱い、外国人客も相当多かったため、身振り、手振りで商売をした。夜遅くまで仕事をしている両親を待つように、研一は「気をつけの姿勢」で寝ていた。懸命に働く両親を、子供ながらに分かっていた。

この頃、「大学前店」を可壮が守り、栄一と昌子が西鉄街の店の経営に当たっていた。そして、西鉄街進出を機に法人組織とし、社名を「株式会社 大賀薬局」とした。栄一は、店員教育にも力を注ぎ、商品知識は勿論、礼儀作法、計数教育を徹底して行った。また、大賀薬局だけの教育ではなく、商店街全体の店員を対象とした店員学校をつくり、自ら校長となり教育に注力した。今でこそ常識であるが、当時はまだ、店員教育などには関心を持たれていない時代であった。終戦後の行く末のわからない混とんとした時代に、「美と健康に奉仕する大賀薬局」「奉仕こそわれらの務め」の社是のもとに、未来を見つめ、薬局としての理想の姿を目指し邁進する栄一の姿は、薬業界の中でも異彩を放っていた。

この頃の出来事 ・平和台陸上競技場が完成〔1948年〕
繁盛につき、続々出店
1953年(昭和28年) 天神町市場(現 福岡銀行本店)に支店開設。

この年の2月、奇しくも卸問屋時代と同じ場所を確保し、出店した。1階が薬局、2階が喫茶室(ソーダファウンテン)をもつアメリカ式の斬新な薬局「天神市場店」を開設した。その頃、喫茶室を持つ薬局は九州にはなく、東京に2店舗だけだった。おいしいコーヒーを飲ませる専門店だと評判がよく、繁盛した。しかし、昭和30年8月、火災で焼失する。火災は天神町市場全体に広がり、市場の半数以上(60店舗)が消失する。当時の新聞によると、火災原因は隣のパチンコ店への付け火だったそうだ。

この頃の出来事 ・福岡市動物園開園〔1953年〕
1958年(昭和33年) 「西鉄街店」にカバン店を併設。

ますます、西鉄街全体が繁盛していった。角ではタバコも売り、その販売数は福岡一だったという。この年の12月、大賀薬局は店舗を拡大し、カバン店を併設した。カバン店という業種を選んだのは、商店街で競合しない業種という理由からだった。カバン店は、それまで薬一筋で全く経験がなかった昌子が担当。毎月、東京・大阪に仕入れに行った。努力の甲斐あり、カバン店の業績は良くなり、時に薬局をもしのぐようになった。“経験よりも努力に勝るものはない”と昌子は学び、その時から「努力し続けることの大切さ」を信念としたという。

1961年(昭和36年) 出店とともに、会社規模も拡大。

昭和36年からの3年間が、大賀薬局の大変革の時だった。天神地区を中心に次々と出店し、会社の規模は拡大していった。11月、西鉄名店街(現 ソラリアステージ)がオープンした。そこに薬局とカバン店を持つ「西鉄名店街店」を開設した。この名店街の厳しい競争率で、土地の確保には大変苦労した。駅ターミナルで急ぐ人が多いので、大賀薬局をサービスステーションと考え、「早い」をモットーとし経営を行った。接客時間を短くし、回転数を上げることにより、相当数のお客様を呼び込めるようになった。

この頃の出来事 ・西鉄ライオンズが3年連続日本一を達成〔1958年〕
調剤薬局の夢を実現
1962年(昭和37年) 本格的な調剤施設を持つ「福岡ビルくすりセンター」を開設。

1月、「福岡ビルくすりセンター」開設。昭和29年に火災で失った「天神市場店」の代わりとして、出店したのであった。天神の一等地に出店を実現できたのは、栄一の西鉄街理事長としてのリーダーシップを見ていてくださった西日本鉄道株式会社様から、福岡ビル1階に入居のお誘いを頂いたからであった。当時としては大規模な約45坪の面積で、本格的な調剤施設を持つ薬局であった。前年の36年に、栄一は東京大学前にある処方箋調剤薬局「水野薬局」様を訪問。その実態を詳しく研究し、調剤薬局、医薬分業の姿を思い描き、すぐさま行動に移したのである。当時としては一大決心を擁する大事業であった。周囲の人の批判、心配をよそに、断固として信念を通して栄一の決断が、この後の大賀薬局の飛躍の原動力となったと言えよう。ちょうど36年には、日本で国民皆保険制度がスタートしていた。

調剤室を持ちながら、アメリカから輸入したお菓子や雑貨なども販売した。また、化粧品コーナーも作り、当時日本にはなかったドラッグストア業態を目指した。その数年後、東京での勤務を終えて戻ってきた研一は、店頭でティッシュペーパーの箱に乗り、お客様を呼び込んだ。また、当時では珍しい、100円均一の売り場をつくり、飛ぶように商品が売れた。資生堂・カネボウ・コーセー・マックスファクター・アルビオン・カバーマークの化粧品も販売した。実は、36年ごろから栄一の体は変調をきたしていた。しかし、外に出れば元気に社員の肩を叩いた。また岩田屋の屋上に上り、天神町の人の流れをじっと観察して将来の対策を練っていたという。37年11月、栄一の癌が発覚し入院することとなった。

この頃の出来事 ・博多駅が現在地に移転〔1963年〕
栄一死去、昌子が社長代行
1964年(昭和39年) 栄一、癌のため51歳の若さで亡くなる。

1月、当時専務であった栄一が癌のため51歳の若さで亡くなった。この時、高齢であった可壮に代わり、昌子は社長代行として経営を任された。社員数は約80名。経営者の肩には、従業員の家族を含めた約250名の生活がかかっている。そう思うと泣いたり嘆いたりする余裕は昌子にはなかった。昌子の子供たちはまだ中学生、小学生、幼稚園生であった。

そして、栄一の死から2年後の41年9月、可壮が78歳で大往生を遂げる。その後、直ちに昌子が社長に就任することとなる。栄一が入院していた折、栄一は自らの死期を察知していたかのように、ベッドサイドで昌子に、商売の理念、道義、計数管理のポイントなどを教えていた。昌子はその一言一句を、ベッドの下に隠したノートに懸命に書き留めた。その時のノートが、社長就任後の昌子の支えとなっていく。

調剤薬局の開設に情熱を
1966年(昭和41年) 昌子が社長に就任。栄一の遺志を継ぎ、出店拡大に立ち上がる。

「大賀は経営不能になるのでは」との噂が流れる中、昌子は栄一の遺志を継ぎ、拡大基調をとり始める。栄一の路線を踏襲し、出店政策を引き継いで立ち上がった。迷ったときは、昌子のバイブルとも云える、病床にあった栄一の言葉を書き留めたノートを取り出し、“企業にとって現状維持は後退でしかない”そんな意味を記されたページをめくり、いつも迷いを吹き消した。また、その頃の自分に一番必要な味方を得た。計数管理のプロとして武田薬品工業様からの推薦により、公認会計士の岩切英明氏が入社。またコンサルタントとして黒岩東一氏の助言を得られることとなり、本部の体制を整えた。

1975年(昭和50年) 薬剤師であるキャリアを生かし、調剤薬局を6店舗開設。

栄一が胸に描いていた未来構想は、「調剤」と「化粧品」を強く意識したものであった。この遺志を受け継いだ昌子は、調剤薬局の開局に情熱を注いだ。医療機関に幾度も足を運び、ねばり強く医薬分業の夢を語り、調剤薬局を展開することができた。その昌子の努力により、50年代のうちに6店舗を開設し、調剤薬局経営の基盤を築いた。昌子は、薬剤師であった。調剤薬局の経営こそ、自分にふさわしい仕事だと思った。昭和37年に「福岡ビルくすりセンター」を開設した調剤薬局のパイオニアとしての意地もあった。栄一のもう一つの夢だった「化粧品」を中心とした店舗戦略は、研一に引き継がれていく。昌子と研一の役割がおのずと分かれていった。

この頃の出来事 ・新幹線、岡山~博多間開通。
・その記念に大濠公園にて福岡大博覧会が開催〔1975年〕
トレンドを素早く店内に
1976年(昭和51年) 天神コアビルに輸入雑貨「木馬館」開設。

6月、天神コアビルオープンと同時に、「天神コア店」を1階に開設。さらに地下1階には、輸入雑貨店「木馬館」を開設した。「木馬館」では、見たこともないようなユニークな小物雑貨や化粧品の取り扱いに挑戦していた。その後、「マイナーの集合がメジャーに勝つ」というコンセプトのもの、化粧品の取り扱いを強化していった。この新しい試みの「木馬館」は、当時の若い女性に好評を得て、その後さらに天神コア4階にも増床。女心をくすぐるショップとして、天神に浸透していった。

次代につながる布石
1976年(昭和51年) 続いて「天神地下街店」開設

9月、天神地下街の完成と同時に入店を強く希望していた研一は、大きな投資をし入店を実現させた。化粧品も多く品揃えし、資生堂・コーセー・カネボウ・カバーマークの美容部員も入店。オープン当初、「薬局に美容部員は入れない」と派遣を断られたが、実績が伸びるにつれ協力してもらえるようになった。

研一の「ニーズを敏感にかぎ取る鋭いカン」と「大胆さ」は、栄一ゆずりであった。そのため大賀薬局の先行投資は、以前とは比較にならないほど大きなものになっていた。新規出店、店のリニューアルなど、あらゆる局面において研一の戦略はつねに果敢である。とにかくテンポが早かった。「血は争えないものだ」と昌子は複雑な気持ちで見守った。

1979年(昭和54年) 新しい大賀薬局の顔となるロゴマークを採用。

大賀薬局は改めて企業の理念を象徴する、新しいロゴマークを制定した。九州芸術工科大学(現九州大学 副学長)佐藤 優氏のデザインによる、真心と優しさを表すハートと、医療、慈愛の象徴のクロスを重ね合わせたロゴマークは、「Heart Cross」と呼ばれるようになり、大賀薬局が目指すべき姿の指標として、社員全体が誇りに思うシンボルマークとなっている。

この頃の出来事 ・天神地下街が開業。〔1976年〕
ドラッグストア時代、幕開け
1985年(昭和60年) 「大学前店」をミニドラッグストアへと改装。

これからの薬局の在り方を模索していた研一は、アメリカで最新のドラッグストアを視察した。お客様が自由に店内を歩き回り、商品を選べるという業態に魅力を感じた研一は、「ドラッグストア」という新たな挑戦に踏み出した。その第一歩としてこの年の12月、開設から57年が経過していた「大学前店」を「ミニドラッグストア」へと改装した。

1988年(昭和63年) 「けやき通り店」開設。

「大学前店」に続き、この年の2月、高級ファッションスポットとして脚光を浴びる中央区赤坂のけやき通りに「けやき通り店」をオープンした。アイテムは1万数百点。顧客を吸引する力を持つ商品は、どんどん品揃えに組み入れた。消費者のニーズを中心に据えた何でも揃う店づくりというのは大賀薬局の創業者である可壮以来のポリシーであった。何でも揃うドラッグストア「けやき通り店」は、86年前、可壮が二日市駅前に設立した「大賀商店」を彷彿とさせる。栄一、昌子が組み立てた専門店志向は、研一によって軌道修正されながらもルーツに戻っていくかのようであった。

この頃の出来事 ・シーサイドももちにて、アジア太平洋博覧会(通称:よかトピア)開催。
・福岡タワー完成。〔1989年〕
平成へ、挑戦は続く
1989年(平成元年) ターゲットを絞り込んだ店舗「オペレッタ」開設。

3月、ソラリアプラザのオープンと同時に、輸入品主体の「オペレッタ」開設。最先端のお洒落な外観と、ユニークな輸入化粧品を取り扱い、流行に敏感な女性の間で話題となった。また翌月の4月には、天神イムズ内に、生活雑貨「ファジー」を開設。スピーディーに新たな業態の店舗の開設を実現していった。

前年(昭和63年)は、栄一の25回忌。1月の法要に察し、昌子、研一家族は次の世代に思いを馳せ決意を新たにした。一直線にひた走る機関車のように、黙々と働き、駆け抜けていった栄一を思うと、いつも昌子は勇気が湧いてくる。「もっと頑張らにゃあいかん」と自らに言い聞かせたという。

1990年(平成2年) 九州初 大規模ドラッグストア「宇美店」開設。

5月、「宇美店」開設。本格的なドラッグストアとして九州初の店舗であった。売場は160坪以上の規模、駐車場付きのアメリカナイズドされた、当時としては革新的なドラッグストアである。研一が、役員全員の反対を押し切って開設した肝入りの店舗である。初めてPOSレジを導入。開店当日に8台のレジすべてにお客様の列ができ、研一とスタッフは感動の極みを経験した。

この頃の出来事 ・福岡ドーム(現 福岡ヤフオク!ドーム)竣工〔1993年〕
郊外への出店、加速
1994年(平成6年) 大型ドラッグストアを続々と開設。

1月、「二日市店」開設。4年前にオープンした「宇美店」と同様にスーパーマーケットとのコンビネーションを組んだ売り場面積約170坪の店舗。「宇美店」が業績を順調に伸ばしていたため、このときは出店にあたり誰も反対しなかった。しばらくすると「宇美店」をしのぐ売り上げの店舗に成長した。

「二日市店」を皮切りに、研一は郊外のドラッグストア出店を加速していった。同年6月に春日市上白水に「白水店」、そして平成10年6月に飯塚市有安に「庄内店」開設。この年からの5年間で、10店舗のドラッグストアを開設することとなる。当時としては驚異的な出店スピードであった。

これらの店舗は、大賀薬局の経営基盤を創り上げ、成長発展に大きく貢献した。並行して、処方せん調剤薬局も開局を続けた。正に車の両輪での展開である。昌子が苦労して築いた調剤薬局を信用の柱にして、研一も医薬分業をさらに積極的に推し進めていった。

天神3本柱の強化
1999年(平成11年) 「ソラリアステージ店」開設。

平成9年、西鉄福岡駅が南へ移転して福岡三越が同年10月にオープンした。九州一の集客力がある天神へと街の様子が変貌していく。平成11年4月、西鉄福岡駅ビル内のソラリアステージの完成に合わせて出店した。

「福ビル店」「天神地下街店」そして「ソラリアステージ店」。3本柱の店舗が天神地区での販売を強固なものにする。「ソラリアステージ店」の前身は、栄一が開設した「西鉄名店街店」である。栄一は、小売業は“立地産業”だと固く信じていた。立地条件で背負わされるハンディキャップは、同業他店と競合する上で決定的なマイナス要因であることを、栄一は知り抜いていたからである。現在は、23年の改装を経てさらに進化し、店名を「Life Stream」とし営業を続けている。

24時間受付の調剤薬局誕生
2000年(平成12年) 24時間受付の「野芥調剤店」を開局。

5月、「野芥調剤店」を開局。福岡で初めて24時間365日処方せんを応需する調剤薬局である。深夜に医療機関を受診される方のみならず、他店の時間外のお問い合わせにも対応し、地域のお客様へ安心をお届けしている。地域を支える医療人としての務めを果たすべく、開局した店舗だ。

この頃の出来事 ・福岡市博物館にて九州・沖縄サミット開催〔2000年〕
2003年(平成15年) 博多駅前に「木馬館&OHGA Pharmacy」開設。

5月、化粧品を前面に出した都心型の新業態店をオープンした。天神コア地下1階の、化粧品販売に特化した「木馬館」のスタイルと、ドラッグストアを併せ持った店舗である。平成12年にオープンしていた「博多駅福岡交通センター店」に加え、博多駅地区での競争力強化を狙った出店であった。平成11年4月の「長尾店」開設から16年末までの6年間で、8店舗のドラッグストアを開設した。一方、調剤薬局は11店舗を開局した。

新たな時代、新たなスタイルへ
2004年(平成16年) 面分業対応に向けた新しい店舗スタート

12月、従来の医療機関の前に調剤薬局を建てるというスタイルではなく、広域の処方せん応需・面分業により対応した新しい店舗「吉塚駅東口店」をオープン。駅前に利便性の高い店舗をつくると同時に、「マイ・ファーマシー(私の薬局)」として安心・安全を提供し、地域のお客様・患者様への貢献度を向上させた。現在では面分業推進プロジェクト「マイ・ファーマシープロジェクト」の基幹店となっている。

2007年(平成19年) 店舗拡大にともない、経営理念を見直す。

この年、大賀薬局にとって大きな変革が行われた。店舗規模の拡大とともに従業員数も増える中で「従業員こそが大賀薬局の財産であり、お客様満足を創り出す」との考え方が明確になってきた。そのため経営理念を「お客様満足 従業員満足」から「従業員満足 お客様満足」へと変更した。

「お客様より従業員が前にくるなんて」という声がなかったわけではない。だが、企業として従業員満足の達成に全力を注ぐことが、必ずお客様満足に結びつくとの揺るぎない信念の下での変更であった。

この頃の出来事 ・福岡ダイエーホークスが福岡ソフトバンクホークスへ〔2004年〕
2008年(平成20年) 「福ビル店 調剤」を癒しの空間へ改装。

11月、昭和37年の開局から46年にわたり営業を続けてきた「福ビル店 調剤室」の待合室を、森の中の空間をイメージし改装。患者様に更にくつろいでいただける空間作りに注力した。内装は、小川をイメージした投薬カウンター、土をイメージしたカーペット、草木をイメージした椅子と壁面、調剤薬局内で一番目を引くのが大木を象った支柱だ。また、生花を飾るようにした。外見だけではなく、店内で流れるリラクゼーション音楽も特徴の一つだ。また、店内には社長自ら選んだ心温まる絵本を設置。お子様はもとより大人の方にも楽しんでいただけるよう工夫した。様々な配慮が店の端から端まで行き届いている。

2009年(平成21年) 「九大病院東門前店」開局。

10月、九州大学病院前の篠崎薬局様跡地に調剤薬局「九大病院東門前店」を開局。九州大学病院前は10軒以上の薬局が立ち並ぶ激戦区。その中で東門前の一等地に開局するのが叶ったのは昭和10年の「大学前店」開店があったからこそである。創業者である大賀可壮が、止むを得ず閉店した天神町の店舗の代わりにオープンした店舗である。篠崎薬局様との近所付き合いは、その頃に遡る。「薬局がある場所に薬局を作らせてほしい」。通常では考えられない依頼ではあったが、栄一・昌子とも親交があり、旧知の仲であった大賀薬局からのオファーに、篠崎先生は快く応じてくれた。

地下鉄駅構内に出店という新概念
2011年(平成23年) 福岡市営地下鉄駅構内に初めて出店。

1月、地下鉄福大前駅構内に「地下鉄福大前店」を開局。公募により複数の小売業者様、調剤薬局様が名乗り出た中で、調剤薬局事業の実績、運営にあたる理念を高く評価され開局することとなった。

ドラッグストアのリニューアルを開始。

この頃から既存店の改装が開始された。前述のとおり大賀薬局は、九州で初のドラッグストアを平成2年に開設した。オープンから20年近く経過した店舗もあり、店舗老朽化に加え、現在のお客様ニーズに応えるべく店舗内のレイアウトの見直しを行っている。この年の11月、常務取締役ドラッグストア事業本部長に大賀崇浩(現社長の長男)が就任。さらにドラッグストアの革新が進むこととなる。

この頃の出来事 ・九州新幹線全線開通〔2011年〕
次代へ向かって
2012年(平成24年) 昌子、永眠。

4月20日、会長 昌子が亡くなった。享年92歳。昭和39年に夫・栄一が亡くなってから、平成2年に研一が社長に就任するまで、27年もの間、社長として大賀薬局の確かな礎を築くことに尽力してきた。仕事に対する厳しさの裏には、従業員に対する深い愛情を持ち、大賀薬局を心の豊かな温かみのある企業へと育て上げた。

博多駅リニューアルに伴い、業態を変化。

11月、博多駅前の「木馬館&OHGA Pharmacy」を従来の化粧品を中心とした業態からドラッグストア型へ改装し「博多口店」へと店舗名称を改めオープン。オフィス立地での競争力強化に向け、デイリーフーズ・酒類も導入した。

この頃の出来事 ・福岡市の人口150万人突破〔2013年〕
2013年(平成25年) コンビニエンスストアとの連携スタート

7月にはドラッグストア・調剤薬局併設店「店屋町店」を大手コンビニエンスストア「ファミリーマート」様と提携し、リニューアルオープン。地域特性を考慮した、新たな地域密着企業としての在り方を示した店舗である。時代の変化に柔軟に対応して店舗作りを続けていくことにより、100年以上の歴史を育んできた。今後も地域密着型企業ならではの、お客様・患者様のご要望にお応えできる企業として、長い歴史を重ねていく。

未来へ
 

高齢化社会の健康サポート サービス付高齢者向け住宅<万葉の郷>(平成26年2月完成)
既存の調剤薬局と併設し、高齢者サービスとの連携を行っていきます。

医療機関との連携 ドラッグストア・調剤薬局併設「長尾店」(平成25年9月調剤薬局併設店リニューアル)
医療機関、ドラッグストア、調剤薬局のトータルマネジメントにより大きな相乗効果が生まれます。

大分医大前店(平成24年6月開局)
県外への出店も積極的に進めています。現在は、佐賀県、熊本県、大分県に出店。写真は5店舗目となる「大分医大前店」。